背中しか知らない女

人妻・団地妻

──“あの香り”を思い出すだけで、胸がざわつくなんて。

団地の朝は静かだ。
テレビの音も、子どもの声もまだ聞こえない。
ただ、桜の花びらが濡れたアスファルトに貼りついている。
その日、和也の朝は“背中”から始まった。

ぴたりと肌に張りついたスポーツウェア。
しなやかな腕の動き。束ねられた髪。
遠ざかっていくその後ろ姿に、思わずゴミ袋を落としていた。

ただの人妻──そう思っていたはずなのに。
朝の風と一緒に流れた、石けんのような香り
目に焼きついたのは、彼女の表情ではなく、**背中の“湿った色気”**だった。

翌朝、和也は数年ぶりにジャージに袖を通していた。
動機は単純だった。「また、あの背中に会いたい」
理由なんて、それだけで十分だった。

数日後、彼女の指先が自分の手にふれた瞬間。
ただキャップを拾っただけ。
だけど、その**“冷たさ”が、やけに熱く残った。**

それからの和也は、朝の風を吸い込むたびに、彼女を思い出すようになった。
雨に濡れた姿。湯呑みを持つ指先。
そして、カーテンの向こうで静かに揺れる影──
背中しか知らないはずの彼女が、心の中では、どんどん近づいていた。

あの夜の沈黙。
「……少しだけ、ここにいてもいいですか」
その一言が、どれほどの想いを込めていたのか。
そして、触れた手にどれだけの“寂しさ”が宿っていたのか。

答えは、まだ出ていない。
けれど和也は、毎朝、ベランダに立っている。

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